立秋を過ぎ 〜 夏休みの想いで 〜
8月に入り、やっと梅雨が明けました。
2020 夏 の始まりです。
一斉に蝉が鳴きだし夏ムード満載ですが、立秋も過ぎもうすぐお盆ですね。
お盆を過ぎると夕方の風はもう秋めいていて、照りつける太陽も力がないように感じます。
7月の長雨のせいで、近所の桜には苔がびっしり。
根腐りしているようにも見え、来年の桜が心配です。
まだ夕暮れの光が残る中、近所のドッグランまで行きました。
2ヶ月ぶりくらいでしょうか。
短い時間でしたが、小走りやだるまさんが転んだをふたりで楽しみました。
帰宅すると、凍らせておいたタオルをアタマに巻いて涼みます。
歴代のワンコではるちゃんは、一番暑さに弱いかナー
嗚呼、涼しいとこ行きたい … 遊びに行きたいね … 。
今年は別として、通常子どもたちの夏休みといえば、海やプール、林間学校・臨海学校 …
祖父祖母に会いに行ったり、キャンプや川遊び・山登り …
人生で大切な事は、全て夏休みに学んだと思います。
ところがわたくしの場合、少し違った夏休みでした。
亡き父は翻訳と物書きをしながら、池袋でJAZZ喫茶を営んでいました。
わたくしは幼稚園から小学校6年間の夏休みと冬休みは、父の実家である岩手県一関市に預けられていました。
幼稚園の時は、亡き母と妹も一緒でした。
小学校に上がると、独りで行かされました。
たぶん、邪魔だったんだと思います w
小学校低学年くらいまでは、上野駅まで父も送ってくれましたが
3年生くらいからは、地元の池袋駅から独りで出発。
上野から急行とか特急の類いに飛び乗り、一ノ関駅まで一人旅です。
さすがに寝台列車に乗せられた記憶はありません。
( 当時はまだ東北新幹線もありません )
越境通学だったので、近所に同世代の友だちもできず
越境通学だったので、地元の野球チームにも入れず
絵や漫画、迷路などを描くのが好きな少年でした。
新聞の折り込みチラシの裏側を、今でいうB4サイズくらいに切りそろえ
紐で括って「 落書き帳 」にしていました。
一関への往路復路は景色をスケッチしたり、車内の様子を描いたり、そんな風にして過ごしていました。
復路は大抵仙台駅での乗り換えダッシュが必要で、階段を猛スピードで上り下りしていました。
おそらくDOOR TO DOORで、5.6時間の旅だったのではないかと思います。
一関駅に着くと叔父さん ( 父の弟さん ) が迎えにきてくれていて、〇〇寿司と屋号の入った軽トラで父の実家に向かうのです。
父の実家はお寿司屋さんでした。
助手席ではなく、荷台に飛び乗り ( 昭和の田舎ですからw ) ものの数分で到着します。
何より楽しみだったのは、父の実家の向かいには「 あきらくん 」という同い年の少年がいて
彼に会うことがとても楽しみだったのです。
同い年の友だち … 。
東京で周りにいるのは、遥かに年上のやんちゃな中学生のお兄ちゃん・お姉ちゃんばかりですからね w
「 あきらくん 」の家は、土間や縁側もあって、お婆ちゃんも優しかったナー。
再会を喜ぶのも束の間、わたくしには「 やらなければいけないこと 」があるのです。
それは
家業のお手伝いです w
道路に面した部分が店舗になっていて、1階の奥と2階は宴会場になっていました。
わたくしの仕事は宴会場に座布団を配置したり、ビールグラスを逆さまにして置いたり
団扇で酢飯を冷ましたり、大忙しです w
宴会のない日は店先を掃除したり、軽トラの洗車。
空いた時間は「 あきらくん 」と虫取りやお墓の掃除、冬になると雪遊びをしました。
長い夏休みの間、一週間くらいは父が生まれた岩手県大船渡市にも預けられました。
一ノ関駅から大船渡線に乗って、2時間くらいかかったのかナー。
父の兄 ( 2006年没 ) が小料理屋さんを営んでいて、ここでもこき使われるのです w
でも、空いた時間は漁港へ釣りに連れて行ってくれたり、あたりを見渡せる山のてっぺんに連れて行ってくれたりしました。
こうして毎日働き、少しだけ遊び … そんな夏休みと冬休みを経験しました。
黙々と仕込みをするお爺ちゃん叔父さんの姿や、
お客さんに「 ありがとうございました 」と深々と頭を下げている姿は、今も脳裏に焼きついています。
その後の人生にも多大な影響があったと思いますね。
年間のうち、ほんの数週間でしたが、海と山のある暮らしを体験させてくれた親族には、ホントに感謝しています。
「 働く 」という事の喜びや楽しさ、厳しさを知った少年は「 会社員 」と「 自営業 」はなんか違うんだナー、と生意気なことを思ったりもしていました w
全く違う業種ですが、フリーランスとして21年やってこれたのも、
あの夏休みがあったからかな、なんて思ったりもします。
そう、人生で大切な事は、全て夏休みに学ぶのです … 。